中澤佑二選手のプロ意識

サッカーを好きな人なら一度は聞いたことが、そして見たことがあるであろうボンバーこと中澤佑二選手(元横浜F・マリノス)。
代表の主力として、2006年、2010年のW杯に臨み、2010年では日本のベスト16進出に大きく貢献。
クラブでも2004年にJリーグMVPを受賞するなど輝かしいサッカー人生を送っている。

実は中澤佑二選手がとても苦労人であることをご存知だろうか?
高校からプロ志望であったものの、高校サッカーではパッとせずにスカウトから声はかからず。

その後ブラジルに渡り経験を積むもののそれでもプロから声はかからず、高校サッカーを卒業した後もスカウトが見に来る試合では恥を忍んで後輩に混じって試合に出ていた等、大よそ世間に知られている華々しい成績とはかけ離れている。
その後、ヴェルディ川崎(当時)の練習生として参加をきっかけにプロへの階段を駆け上がり、そこからは皆様の知っている中澤佑二選手である。

そして1999年21歳でプロ契約後、2017年39歳になった今でも現役を続けている。
これは食生活から睡眠時間まで全て計算しているストイックな体調管理と日々の目標を持ったトレーニングによるものが大きい。
インタビューなどを聞いていてもベテランと呼ばれるようになった後も毎年目標を持ち、練習場でもそういったトレーニングを積んでいる。
まさに不屈の男・努力の男、中澤佑二選手であり、その姿はサッカーを志すものでなくても心を打ち尊敬に値する人物である。

ちなみに、練習を見に来たファンへのファンサービスも丁寧なことで有名。
も、上記の通りストイックな性格のため体調管理等の問題がある時はファンサービスを行わないことがあるので、中澤佑二選手を目的で練習場に行かれる方は注意。

吉田麻也、主力DFの離脱により得たチャンスを生かす!

プレミアリーグの強豪サウサンプトンに所属する吉田麻也。
シーズン開幕当初はベンチ要員としてなかなか試合に出ることができなかった。
出たとしても、後半ロスタイムであったりカップ戦での格下相手の試合だったりとコンディションを保つにはなかなか難しい状況であった。

そんな中、サウサンプトンの主力DFファンダイクが怪我により離脱、フォンテはクリスタルパレスに移籍と吉田麻也にチャンスが回ってきた。
しかし、多くのメディアは吉田麻也では役不足だと代わりのDFを連れてくるように支持した。

そんな逆風を吉田麻也はプレーで見返すことになる。
吉田麻也は安定したプレーを見せ、チームの守備を支えることになる。

そんな吉田麻也をメディアは賞賛し、サウサンプトンの後半の巻き返しのキーパーソンとなった。
シーズン終盤にはキャプテンも任され、吉田麻也にとっては素晴らしいシーズンになっただろう。

本来体の小さな日本人がプレミアリーグで活躍することはとても難しい。
そんな中、結果を残すあたりはさすがだ。

しかし、これで来シーズンのレギュラーが確約されたわけでない。
ファンダイクの復帰、新たなDFの移籍など多くのチャレンジが待っているだろう。
来シーズンの吉田麻也にも今シーズンのような活躍を期待している。

久保裕也、ブンデスリーガ・1.FCニュルンベルク所属

サッカー選手で久保と言うと皆さんは誰を思い浮かべるでしょうか?
日本人離れした驚異的な身体能力でゴールを量産しながら、けがに苦しみワールドカップ出場を果たせなかった久保竜彦でしょうか?

それとも、天才少年と言われ続けかつて FCバルセロナの下部組織で育った久保建英でしょうか?
かつてサッカー界の久保と言われるとこの二人を想像する方が大多数だったでしょう。

しかし今年から急激に知名度を上げてサッカー界の久保の代名詞となったのはKAAヘント所属の久保裕也です。
今や日本代表に欠かせない男であり不調に苦しむかつての代表のエース本田圭佑からポジションを奪った男です。

多くの方は、日本代表で立て続けにゴールを決めて所属チームでも大活躍する久保裕也しかご存知ないでしょう。
それでは、日本人初の欧州1部シーズン20得点達成した久保裕也の背景を少しご紹介しましょう。

彼のプレーが注目を集め始めたのは、彼が京都サンガFCに所属していたころです。
J2に苦しむエレベータクラブを脱却するために、久保裕也は当時の大木監督に抜擢され、高校生ながらゴールを量産し、高校生ながらリーグ戦10ゴールを挙げる大活躍でした。
天皇杯でもここぞという場面でベテランのような落ち着いたプレーで3ゴールをあげて京都サンガを準優勝に導きます。

久保裕也は、このころからとにかくシュートが上手く、ボールを吹かすこともほとんどありませんでした。
若くしてチームの柱となり、当時のチーム練習は彼の学校が終わり次第始まっていた、という伝説も京都サポーターの中では囁かれていました。
長年決定力不足に悩まされていた日本代表を救う男、久保裕也は京都の地でしっかりと力を蓄えていたのです。

京都ユース時代も、誰よりも遅くまでシュート練習を黙々とこなしていたそうです。
そして、久保裕也の性格を伺わせる京都時代のエピソードがあります。

久保裕也は、2013年シーズンの途中にスイスのヤングボーイズへと移籍します。
しかし実際にはその前から彼の所属はヤングボーイズへと移行していたと言われています。
ヤングボーイズからのレンタル移籍として京都でのプレーを続けていたのです。

その理由は、京都をまだJ1へと導いていないこと、お世話になった京都を自分のステップアップの簡単な踏み台にしたくないという男らしい理由でした。
しかし義理堅くても20歳の伸び盛りのこの男の意見を、ヤングボーイズがいつまでも聞いてくれるわけもなく、2013年シーズンの途中でスイスへと渡ることになったのです。

スイスでの4年間で35のゴールをあげてしっかりと結果を題した後に、ベルギーのKAAヘントへの移籍が決定しました。
かつてスイス時代にテレビでの特集では、家にカーテンもなく、「趣味は努力すること」と述べた男はそのサッカー漬けの努力が実り所属のKAAヘントでも日本代表でも大車輪の活躍を見せている。

その後、ブンデスリーガ・1.FCニュルンベルク所属に。
きっと久保裕也は、ニュルンベルクでも誰もが認める結果を出し続けるでしょう。
結果を残した後に本人が希望するイタリアでのプレーが待っているはずです。

かつての古き良き日本人らしく、義理堅く必ず結果を残してから所属チームを去る律儀な男はこれからもニュルンベルクで結果を残し続けるでしょう。

ユベントス所属、ジャンルイジ・ブッフォン選手

イタリアセリエAユベントスに所属する、イタリア代表ゴールキーパー(GK)のジャンルイジ・ブッフォン選手について紹介します。
ジャンルイジ・ブッフォン選手は、現在39歳になります。
サッカー選手にとって39歳というのはかなりの高齢になります。

GKの選手寿命はフィールドプレーヤーと比較すれば長いですが、それでもこの年齢まで第一線で活躍するというのは凄まじいことです。
ジャンルイジ・ブッフォン選手は、セリエAの強豪ユベントスの生GKであるとともに、いまだにイタリア代表でもレギュラーで出場しています。

ジャンルイジ・ブッフォン選手は、17歳に同じセリエAのパルマというクラブでプロのキャリアをスタートし、すぐに当確を表し、当時のGKとしては正解最高額の移籍金でユベントスに移籍します。
ユベントスで彼は多くのタイトルを獲得し、在籍中にはW杯優勝も経験します。

彼が保持していないタイトルとして、ヨーロッパクラブNo1を決めるUEFAチャンピオンズリーグです。
過去に2回決勝まで進出していますが、いずれも敗れてしまっており、トロフィーを掲げたことはありません。

しかし今年、再びユベントスは決勝の舞台に立ちます。
私個人としては、是非三度目の正直を達成し、欧州最強の称号を得て欲しいと考えています。

年齢的にも引退は確実に近づいており、1年1年が大事になってきます。
ジャンルイジ・ブッフォン選手曰く、欧州を制覇しても引退することはないそうですが、是非今年こそ優勝してほしいと思っています!

京都の至宝、宮吉拓実選手

以前、サンフレッチェ広島で活躍していた宮吉拓実選手。
移籍した2016年は早速4ゴールをあげ、ベストゴールにノミネートされたゴールもありました。

元々、宮吉拓実選手は、京都サンガF.C.の下部組織で育ちました。
ポジションはフォワードで、得点感覚に優れ、どんな状態からもゴールが狙える器用なフォワードです。
身長はやや低めですが、クロスに対しての胸トラップからのゴール等は見事としか言いようがありません。

また、得点だけでなく状況判断にも優れ、今のタイミング、今の場所で考えられる最善のプレーをすることができる選手です。
また、中学2年生の頃からトップチームの練習に帯同し、シーズン前のキャンプでは、当時チームメイトだった元日本代表の秋田豊選手を唸らせるほどでした。

サンガでのプロデビュー戦はガンバ大阪戦でした。
1点を争う接戦の中、フェルナンジーニョ選手に変わって72分から途中出場しました。

かねてから凄い選手と噂だった宮吉拓実選手がピッチに立つと、その日一番の歓声が沸き起こりました。
そんな雰囲気が加速したのは宮吉拓実選手のファーストタッチです。

ボールをもらうやいなや、ガンバのディフェンダーからは逃げつつ、最戦線への林選手の足元へ吸い付くようなボールを供給したのです。
林選手はその後シュートを決められませんでしたが、それが決まっていれば宮吉拓実選手は今以上に注目されていたことでしょう。

イタリアの名門インテルで這い上がってきた男、長友佑都選手

長友佑都選手はインテルで年長者である。
長友佑都選手がインテルに入団してから長い年月が経つが、今なおインテルで更なる高みを目指して日々奮闘している。

では、長友佑都選手にとって一番充実していたシーズンはいつなのか。
一番結果がでた2013/2014年シーズンか。
答えはノーだ。
むしろ前半戦で戦力外扱いをされていた2015/2016シーズンだという。

それではなぜか。
その年のシーズン初めの方、ジュニアユースの選手と練習していたのだという。
そのとき長友佑都選手は走りながら涙が出ていたのだそうだ。
よほど悔しかったに違いない。
移籍の話も取り正された。

だが、長友佑都選手は残留というより厳しい道を選んだ。
そこで長友佑都選手がこの状況をこのように打開しようと考えたのだという。
「練習を120%でやること」
練習で誰よりも声を出し、誰よりも追い込む。
インテルでレギュラーになれる保証はない。

だが、長友佑都選手はあきらめなかった。
その結果、後半戦から出場機会が増え、最終的にライバルからポジションを奪い取った。
人間生きていく中で安定であればそれでいいのかもしれない。

だが、リスクを冒してより厳しい道を選び、その中でもがいた方がはるかにいろんなことが学べるし、人間追い込まれると大きく飛躍する。
その事実だけは日本人に伝えておこう。
これからもがんばれ長友佑都選手!

長友佑都と我々が彼の生き方から学べる事

サッカー日本代表と言えば文字通り日本人で最もサッカーが上手いプロ選手たちの集まりだ。
多くのサッカーファンの憧れの対象となり多くのお金をかせぐ魅力ある男たちである。
一見して人生に挫折を味わったことのなさそうな、世間知らずのエリートたちだけで構成されているかのようにさえ見える。

しかし、そんな中でもサッカーエリートではなく、雑草魂でたたき上げで結果を残し日本代表のユニホームを勝ち取った男がいる。
その名前は長友佑都だ。

オフシーズンにはよくテレビにも出演しており、何よりもタレントである平愛梨と結婚したことでサッカーファンでなくとも、長友佑都の名前はご存知だろう。
今でこそイタリアの名門インテル・ミラノに所属し日本代表の顔だが、子供時代に多くの苦難を経験している。

実際に、長友佑都の父と祖父の事業失敗したために父はが失踪し、母一人子供3人の厳しい生活を子供時代に送っているのだ。
幾ら道具の少ないサッカーとはいえ、母子家庭で本格的にサッカーをすることは、家庭の経済を間違いなく圧迫しただろう。

しかも、長友佑都は、小学6年生時に愛媛FCジュニアユースのセレクションを受けるも不合格になっており、サッカー人生も順調ではなかった。
2002年にサッカーの強豪東福岡高校に進学するも、地区選抜などには選ばれず、全国的には無名だったためスポーツ推薦を得られずに高校の指定校推薦で明治大学に入学することになる。
大学時代も入部早々に発症した椎間板ヘルニアを再発したために、試合に出場できずスタンドで応援する日々が続いた。

しかし、椎間板安定の為に腰周りの体幹筋を鍛えたことも奏功したのか2006年8月以降に急激に頭角を現しチームの主力選手へと駆け上がる。
長友佑都の成り上がりはとどまることなく全日本大学選抜やユニバーシアード代表にも選出され、2007年5月からはFC東京の特別指定選手に登録され7月8日には公式戦デビューをかざりU-22日本代表として北京オリンピックアジア二次予選のマレーシア戦に選出されることになる。

そして、大学卒業を待たずにしてFC東京と契約を結び明治大学を中退することになる。
ここからの長友佑都のストーリはサッカーファンなら誰もがご存知だろう。

瞬く間に日本代表に選出され、伝説の2010年南アフリカワールドカップで結果を残し世界一過酷なリーグセリエAへと移籍する。
ACチェゼーナと言う小さな町クラブに所属するがたった16試合でその献身的かつ驚異的な運動力が評価されて名門インテル・ミラノへと移籍することになる。

つい4年ほど前までは明治大学でもスタメンを貼れずに応援団として太鼓を叩いていた男が誰もが知るインテル・ミラノに所属しているのだ。
長友佑都が、なぜこれほどまでに評価されるのか?
それは驚異的で献身的な運動量だろう。
長友佑都の成り上がりの人生を見ると誰もが大きな成功をつかむチャンスがあることを教えてくれる。

ただ、そのチャンスがあった時に全力でつかみにいくかは自分次第だ。
長友佑都も明治大学を卒業してからFC東京に所属することを希望していれば、U23歳以下の日本代表にも選ばれることはなかったかもしれない。

そうであれば、今8万人を収容するインテルのホームであるスタディオ・ジュゼッペ・メアッツァでプレーする日本人を我々は目にできなかっただろう。
自分がどんな環境で育っても腐らずに努力をしチャンスに積極的に挑戦すれば大きな成功を掴める。
それが長友佑都が我々にサッカー人生を通して教えてくれた貴重な教訓だ。